現代作品の場合は全くと言ってよいほど、演奏者の生理的都合など考慮せずに作曲される場合が多い。ゆえに弾き歌いが可能な作品は少ない。当初は一人で弾き歌いするつもりが、どうにもこうにも一人では不可能な場合が出てきてしまい、歌と三味線と別々の奏者を仕立てなければならないこともある。その場合は、一人の奏者が弾き歌いしているがごとく、気合いを合わせることが必要で、これがまたかなり難しく、一心同体のように合わせられるまで長時間の練習が必要になる。 また言葉をはっきり聴衆に解るように発音して唄うのも重要なことと思う。子音をいつもより誇張して発音し、音声の響きに紛れることなく、その意味を唄い込む。日本の歌の場合はメロディーなど、音の高低よりもその言葉の意味を表現することが重要ではないだろうか。声の美しい人がその音声に酔いながら唄っているのを聴くと、ほとんどの場合、言葉が失われているように思えるのだ。言葉を丁寧に発音して、語りかけていくような歌が唄いたいものといつも思って心がけている。その言葉の意味がたった一つの音声にさえ感じられるほどに唄えれば、声の表現として成功なのではないだろうか。